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お休み處  桐風庵

お休み處  桐風庵

南無妙法蓮華経

妙法蓮華経という経典の題目を唱えるだけで成仏できます。法華経は八巻二十八品、開経と結経を加えると十巻にもなりますが日蓮上人はそれを七文字に集約しました。七文字を唱えるだけで十巻分の功徳があるということです。妙法は素晴らしい教え。不思議な教え。大宇宙の法。蓮の華というのが不思議な花で何万年も前の化石を栽培して種から芽が出て花が咲くといったことがありました。不思議な教えの象徴です。また、蓮は泥土の中から出てあのような美しい花を咲かせます。濁悪の俗世にあっても凛としている様を表しています。「妙法蓮華経というありがたい教えに私の全てを捧げます」これだけで成仏ですよ。ありがたいことです。日蓮上人は大酒のみだったといわれてますが俗説です。他の坊さんから教義についての論戦を申し込まれた日蓮は「そんなくだらない議論をする暇があったら酒でもカッくらって寝てた方がマシだ」みたいな内容の書状が残っている為だと思われます。でも酒のみの私としましては、その俗説が本当であってほしいと願うのであります。 2009.7.20





法華経について
私は法華経の信仰者であり行者を自認する者です。何故、法華経かと申しますと誰でもが仏に成れるということだからです。私のような下の下の者でも。そして、数ある経典の中でも法華経が最高の教えなのだとお釈迦さま自身が仰ってるからです。実践するからには最高のものがいいですよね。法華経の成立は釈尊没後500年ほど経って編纂されたお経だそうです。ですから本当は釈尊が言った言葉ではないという意見が多いようですね。そうかもしれません。ですが、そのような理由でこの壮大な法華経に触れないというのは勿体ない気がいたします。壮大ですよね。想像できない広大な空間を飛び回り、気の遠くなるような時間を行き来する。スケールがデカいです。そんな法華経の内容はといいますと、ただひたすら法華経を褒め称えています。法華経というお経の中で法華経を讃えてる。つまり自画自賛ですね。仏に成る方法は最後まで出てきません。前振りが長くて結局スクープの真実を教えてくれない河内家菊水丸の河内音頭みたいなもんです。平田篤胤は「効能書きばかりで中味の丸薬がない」と言ったとか。でも、そうであったとしても、この法華経の壮大なドラマは私を魅了します。修行の方法については、聴衆は既に身に付けていることを前提に釈尊は説法したのではないでしょうか。 2017.9.9




一人信仰ノススメ
仏教はどこまでも自分と向き合うものです。自分は何者か?どうあるべきなのか?自分を見つめて反省の連続です。反省行。これなら一人でも出来ます。どこかの団体に所属しなければならないということはありません。一人でやると我見の信仰になるのでよくないと言う人がいます。いや寧ろ邪師に付くよりかは我見の方がまだましです。私自身はこの方法が一番合ってると思います。団体の指導に疑問を持ってる方、団体の活動で疲弊している方には特にお奨めです。山谷曠野どこに居ても一人で唱えるのが真の修行です。一人信仰を続けてて、そのうち団体を立ち上げようとか教祖になろうなどと努々思ってはいけません。組織は必ず腐敗します。絶対に。「日蓮は、いずれの宗の元祖にもあらず、また末葉にもあらず」2023.1.7





なぜ宗教団体に入るのがよくないのか?
宗教団体に限らず人が群れて集まれば中で仕切りたがる者リーダーになりたがる者が現れます。それまで平等な仲よしグループであってもです。それが人間の性というか動物の性というか。主導権争いの果ては権力の掌握です。周りを自分の意のままに操ろうとする。自分に都合のいい組織造りをする。一人が独裁者になる場合もあるし数人でトップを形成する場合もあります。自分等の好き勝手に組織を動かします。時が経つにつれ組織は悪癖を重ね腐敗します。それは伝統仏教と呼ばれてる宗派でも同じです。 権力は必ず腐敗します。絶対に。純粋に信仰する者の集まりでそんな事あるわけないじゃないかと思うかもしれません。純粋に信仰する者の集まりだからこそ起きやすいのです。権力指向の強い俗物がリーダーになったらどうなるか?生真面目で純粋な信者たちを扱うのなんて赤子の手を捻るより簡単でしょう。自分の意のままですよ。池○大○みたいに。そのような団体に居たって本当の信仰なんて出来ません。2023.1.7





唱題
私の信仰の中心は唱題行です。方便品寿量品は盆と正月と誕生日しかやってません。加えて気が向いたらお彼岸にやってます。唱題は毎日朝晩やってます。南無妙法蓮華経の意味をよく噛みしめながら行うことが大事ではないでしょうか。漢字の文字を大事にしなくてはいけません。呪文のように闇雲に唱えても意味ないです。いや唱えるだけで深い意味があるんだと言う人もいるでしょう。何も考えずに唱えても効果はあるのかもしれません。でもそんなこと我々凡人にわかるわけないですよね?だったら理解できるところから始めるべきではないでしょうか。南無は帰依する。妙法蓮華経に帰依する。妙法蓮華経はサンスクリット語の漢訳です。原文のサッダルマ・プンダリーカ・スートラを直訳すると「白い蓮の華のような正しい教え」です。わたしは妙なる法である蓮華の教えに帰依します。南無妙法蓮華経は呪文や祈りではなく況してやオネダリなんかじゃなく「誓願」です。誓いの言葉。つまり、わたしは白蓮のように清らかで居ますという宣言です。六根清浄。誓いの言葉ですから一言でいいのです。一言摂尽。と言うとまた横槍が入りそうですが一言摂尽の題目について納得いく回答してくれた人は一人もいません。続けて唱える題目は気が済むまで心ゆくまで行います。私はだいたい朝晩10分から20分ずつ行っております。この行は「禅定」です。心を静める功徳だととらえています。朝、忙しいからといって早口でせわしなくやるくらいならやらない方がいいです。回数じゃないんです。目的は寂静です。その時、声帯を通さずにウイスパーで唱えてます。禅定にはその方がいいです。近所迷惑にもならないですし。座禅と違うところは、座禅は只ひたすら瞑想です。指針がありません。何処に行き着くかわからない危険性があります。私は以前一人で瞑想していて死にたくなったことがあります。危険です。唱題行は誓願しながら瞑想しています。ちゃんと指針があります。南無がポイントですね。南無を意識することによって謙虚を自覚することになります。それから引き題目について。ここでは声を出します。ゆっくり長く唱えて一閻浮提に遍く届けることを表現しているそうですけども凡人の私にはわかりません。ですが寂静という意味では大事な行であります。深呼吸は体にもいいです。2023.1.11





御本尊
私は仏壇店で購入した曼陀羅を使用しています。今はネットでも注文できますね。色々な種類があります。自分のフィーリングに合った曼陀羅を選ぶのがいいでしょう。そもそも曼陀羅はなくても構わないと思います。己の肉団におわします仏性に向き合う修行ですから。虚空会の儀式あるいは宇宙を表現していると云われる曼陀羅ですが、その様子を上手く想像できない我々庶民の為に日蓮上人は描いてくださったのではないでしょうか?だから想像できる人は要らないのです。昔は字そのものを読めない人が多かったですしね。それを日蓮○宗の御本尊じゃなきゃ成仏できないとか創○学会から離れると地獄に堕ちるだとか言いますよね。何処か特定の一つの曼陀羅じゃなきゃ駄目だなんてのは偶像崇拝であって仏教じゃないですから。特定の一つの団体じゃなきゃ駄目だってのはセクト主義ですよ。全共闘の内ゲバみたいな。日蓮上人はそんな狭い了見で曼陀羅を描いたんですかねえ?そうじゃないでしょ。私は南無妙法蓮華経は仏教の行として最強だと思ってます。ですがもし日蓮上人がそんな狭量ならそれが本当なら私はこの信仰をやめますよ。2023.1.11





ご観念文ご祈念文
宗派によって呼び方が色々ありますし内容も大分違います。一人信仰するにあたって馴染みのある文を使うとよいでしょう。為になる言葉は良いものとして残しておき、気に入らない言葉は削るなどの工夫が必要です。出来る人は一から文章を考えてもよいでしょう。邪師の名前を讃える文は必ず消したいもんです。ご観念文は大事です。文字の意味を理解しながらゆっくりと時間をかけて行うべきです。2023.1.12





折伏
何が正しい宗教で何が正しくない宗教かなんて本当にわかりますか?わかりもしない我々凡人が胸張って折伏なんてやっていいんですかね?天台大師や日蓮上人は何かが見えて感じて正しい教え間違った教えがわかったのではないでしょうか?信念を持って。そして、やむにやまれず折伏をおこなったのではないでしょうか?何もわからない凡人が威張って他の宗旨にイチャモンつければそりゃ喧嘩になりますよ。反発してきたら法難だ仏敵だって言いますがそれは違うでしょ。平和に暮らして穏やかな信仰してる家にズカズカ入って文句たれりゃ誰だって怒ります。「時によるべし」今は折伏やっちゃいけない時だと思います。悪魔崇拝のような明らかな邪教が世の中に蔓延ってたら強いてでも改宗させねばなりません。平穏に真っ当な信仰している者はそっとしておくか摂受でよろしいでしょう。無理に折伏したっていいことはありません。本当にいいものは無理強いしなくてもクチコミで広まるもんですよ。歯医者だろうと飲食店だろうと風俗店でも。呼び込みやキャッチセールスでマトモな所はありません。暴利だったり詐欺だったり。これは古今東西共通です。けして安売りしちゃいけません。文証よりも理証よりも現証ですよ。「この信仰をするとあの人みたいに素敵になれるんだ」と多くの人に思われる。結果として同士が増える。これこそが本来の布教のあり方であり折伏なのではないでしょうか?最後に一言付け加えますと創価学会がおこなった折伏大行進によって庶民が法華経に触れるきっかけを広く多くつくった功績は認めます。2023.1.13





一人信仰ノススメ その2
日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会、等のいわゆる興門流とか富士門流と呼ばれる人達はどうしてお互い汚い言葉で罵り合うのでしょう?他の仏教宗派ではそのようなことはありません。この人達の特徴ですな。とても仏教を研鑽している者には見えませんが。言えば言うほどそれぞれの団体自ら逆宣伝になってますねえ。宣伝効果抜群です。これじゃ誰も近寄りたくないですよ。結局、群れるからいけないんじゃないでしょうか?どうしても自分の所属する団体を贔屓したくなるのはわかります。そして敵対する団体にはヤジを飛ばして楽しんでる?巨人ファンと阪神ファンみたいに。まあ言い合って済む内はいいですがイスラム教キリスト教のような殺し合いにまで発展したらこりゃエライこっちゃですよ。そうならない保証はありません。それぞれのトップに踊らされるのはいい加減やめにしませんか。ここはもう、一人静かに修行に励んでみてはいかがでしょう?その方が実りある信仰生活に思えますがねえ。2023.2.8





折伏 その2
折伏に躍起になるあまり怒り相手を罵り修羅の様相を呈してます。これでも仏道修行と言えるのでしょうか?仏道修行とは真逆なことやってませんか?まるで修羅道畜生道の修行です。特に日蓮正宗と創価学会の折伏合戦は目に余るものがあります。同じパイを奪い合ってるだけにもかかわらず。本当に相手のことを思いやっておこなってるようには見えません。折伏をしなければ自分の悪い宿縁は切れないとはよく聞くことですが果たしてそうでしょうか?そうだとしても目的が自分の為なんじゃないですか?或いはノルマの数字を追うため。とにかく迷惑行為であることに変わりありません。もうやめた方がいいです。2023.3.3





教学
仏法を学ぶにあたって何が肝要なのか何が最優先されるべきなのかを考えることが大切です。最も重要なことは釈尊の経に沿っているかということです。日蓮遺文を読むにしても、あまりにかけ離れた論だと偽作と疑っても構わないです。その為、遺文集は全編一度目を通すのがよいでしょう。研究者でもない限りそんなに何度も熟読する必要ありません。「御書のどこにそんなことが書いてあるんだ!」とかの論争がよく見受けられますが馬鹿馬鹿しいです。そんな重箱の隅をつつくようなことするよりもっとやることがあるでしょって感じですね。日蓮正宗版と創価学会版の御書は都合の悪い箇所は削除されてます。有名なのは種種御振舞御書の中盤で「所持し奉る釈迦仏を立てまいらせ」がカットされてます。文献を改竄するのはいけませんね。私は平楽寺書店版の昭和新修日蓮聖人遺文全集を愛用してます。文字が大きめで見易いですね。ルビも振ってて読むのが楽です。そして別巻にて文献の検証をしてます。疑わしい部分は再考の余地があると記述してるのは良心的です。2023.3.10





折伏 その3
所属の団体を離れたら或いは団体に入らなければ或いは団体に意見したら堕地獄だの仏罰があたるだの言って脅すのはやめた方がいいのではないでしょうか。同じ法華経を信奉する者同士が誹謗し合ってどうしますか。その方が罪が重いですよ。だから私も本当はこんなこと言いたくないんですけどね。しょうがない。注意してあげないと何時までたっても気がつきませんので。堕地獄とか仏罰を信じてない無宗教の人だって余程神経が図太い人でない限りそんなこと言われれば気持ち悪いもんですよ。それって人を呪ってるのと同じですよ。人を呪う宗教ってなんですか。悪魔崇拝ですか?○○法主撲滅唱題会なんてやってたことありましたが。何度も言いますが特定の団体に所属してなきゃ成仏できないなんてそんなことあるわけないでしょ。ちょっと考えればわかりそうなもんなんですけどね。それから人の不幸につけこんで勧誘するのもやめた方がいいですね。病気とか貧困とか。人が不幸になるのを虎視眈々と狙ってる。いやらしいですね。そんなことやってると自分が不幸になりますよ。考え方変えた方がいいですね。2023.3.23





折伏 その4
日蓮系の何処の団体どこの寺院に所属しようとも広く大きな括りで云えば何れも法華経の信者であります。それがお互い折伏し合ってます。そのやり取りを見てると汚い言葉で罵ってるだけで相手に対する尊敬の念などありゃしません。将来、仏様に成るお方ですから決してあなたを軽んじませんという常不軽菩薩とは全く程遠い行為です。こんなことしてたら法華行者毀謗の罪あるいは破和合の罪になりゃしませんか?折伏するのならもっとおおらかな心持ちで行いたいものです。山谷曠野どこも道場。この曼陀羅じゃなきゃ駄目だとかは狭い了見ではないでしょうか。そもそも曼陀羅が千年も万年も残るものでもないですし。形あるものはいずれ滅びる。それを端的に表してるのがチベットの砂曼陀羅です。諸行無常、成住壊空ですよ。拘り執着するのはよくないことです。仏教の初歩で躓いてる気がいたします。2023.4.11


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